ハロンの入り江

日常とかネットの話を書いています

死というエンターテイメント

藤圭子さんが亡くなって、Twitterで人気のわさびちゃんが亡くなって、世間が盛り上がっている。藤圭子さんはどちらかというとリアルが、わさびちゃんはTwitterが、という感じ。なんかまるでお祭りみたいだなーと思ってしまう。わさびちゃんトレンド入り!とか、まあそれだけ愛されていたというのが好意的な解釈なんだけど。

死はエンターテイメントだなと思ってしまった。いや、そう見えてしまった。ほんとうに死を悼んでいる人もいるし悲しんでいる人もいるし(それこそ面識ないような人でも)でもマスコミやTwitterの世界にあげられると、途端にお祭りみたいに見えてしまうのは不思議だし、自分の解釈に問題があるのかなー。
なんか、流行りものに群がってるみたいな。あまちゃんとか進撃の巨人の実況のような。一体感。
色々と感覚がセンシティブになっているせいでしょうか。
事件の方向が嬉しいものであれ悲しいものであれ、一体感には快感が伴ってしまうんだろうなとは思う。
Twitter、魔のツール……。
というより、きっとそういう一体感は昔からあるんだろうけれど、文字で見えてしまうのがすごいインスタントに見えて、生理的に好かないとかそういうことかな。

騒がれている当人の気持ちはどうなのかなと思ってしまう。自分だったら家族の死で騒ぎ立てられたくないし、してきた人のことを軽蔑しそう。
でもそういうことをわかってて、有名な人は有名になるし、愛される人は愛されているのかな。
藤圭子さんはあんま知らないけれど亡くなった翌日からテレビ映像でまくっていたから見た。確かに薄幸そうで歌声が綺麗。あとなんか不思議ちゃん?に見えた。わさびちゃんはずっと見てて、ぽんちゃんとの写真可愛いな~癒される~くらいに思っていた。
矢面に立たされてしまった宇多田さんは気の毒だし(そっとしておきましょうよ)、わさびちゃん死んでしまったことをぽんちゃんはどう理解するのかな、とかそういうことを考えた。あまりに遠いからですね。
ご冥福をお祈りしますとインターネットで主張するのも何か恥ずかしい気がするのでなんとも……。知り合いじゃないしなー。この言葉はどういう時に使うのが相応しいのかな。知人の家族が亡くなった時に使うには事務的に見えるし、かといって有名人の死を悼むにはノリが良すぎるような気がするし。